1月9日:映画『偶然と想像』1

 渋谷のBunkamuraル・シネマで濱口竜介監督の『偶然と想像』を見た。ネットの配信で既に1度見たのだが、劇場で見たかったのと、上映後に濱口監督のトークイベントがあるので来た。
 僕は映画が好きなだけの素人で、たくさん見ているわけではないし、ショットや構図の専門的な知識は全くないが(いずれ身に着けたい)、今回『偶然と想像』を見て気づいたことをここに書く。


 それは「境界」についてである。

 濱口監督は、公開に際してのインタビュー(https://tokion.jp/2021/12/17/ryusuke-hamaguchi/)で、

 

 ー1つ言えるのは、実在する世界とフィクションの境界面みたいなところに、「偶然」も「想像」もあるのではないかということです。想像というのは、ないから想像するという側面がありますが、偶然の方は、稀な、ほとんどあり得ないことなんだけど確かにあることなんですよね。つまり、偶然はその境界面の「ある」側の方に、想像は「ない」側の方にあって、その現実とフィクションを取り違えさせる、あるいは超えていくために、この2つは表裏一体の役目を果たしているんじゃないかと考えているところです。ー

 

 ー本当に欲しいものを現実のものにする時に、やっぱり自ら飛び込んでいく必要がある。そして、その飛び込んでいく対象というのは、ある種の偶然によって現れるんだと思います。ルーティンで構成されている自分の人生に訪れる、本当はこちら側の人生に開かれていきたいと思っているその偶然にうまく飛び乗れるか、自分を投げ出せるかということ。ー

 

と述べていて、「境界」について話しているのだが、僕は映画の中にいくつもの「境界」が出現していると思った。それは大きく分けて3つに分類できる。「現実世界にある境界:空間」、「カメラによって発生する境界:メディウム」、「複数の世界線:映画(時間)」の3つである。

 

1.現実世界にある境界:空間

 まず「現実世界にある境界」は、文字通り、現実世界に存在する物理的な境界のことである。『偶然と想像』では特に、内と外の境界としての”開口部”が頻出する。ほぼ全てのシーンに開口部がある。

 開口部の多くはガラスで、境界の先の世界が常に透けて見えている。第1話のタクシー・マンションのエントランス・設計事務所・カフェ、第2話のゼミ室・瀬川先生の部屋・アパート・マンション・バス、第3話のバル・家。徹底して開口部=透明な境界がある。
 また、開口部のうち、ドアは3話全てに登場するエレメントで、他者(事務所のスタッフ、同級生、宅配便のお兄さん、息子)がドアという境界を越えてきて、登場人物たちがいる世界に侵入し影響を与える。

 他には、第3話の住宅のキッチンはカウンター式で、台所とダイニングの境界として2人は向かいあう。また、住宅へ向かう道には歩道と車道の境界である白線があって、白線の内と外をそれぞれ歩いていた二人が他者に出会った後、同じ側を歩くシーンなど、ちょっとした偶然に駆動されて人は境界を越えたり、境界の前で踏みとどまったりする。その繊細さが良い。

 このように、この映画は日常にあるたくさんの境界を表現していて、これらの境界は当然私たちも実際に経験することができるし、日々経験している。

 

2.カメラによって発生する境界:メディウム

 2つ目は「カメラによって発生する境界」である。カメラの位置・切り取るフレームと、その場所にあるオブジェクトの位置や人物の動き・向きとの関係から、境界が発生する。

 カメラとオブジェクトの関係では、例えば第1話は、工事現場を切り取ったカメラが、ゆっくりと上にティルトして椿?の木が現れる。第2話では、テーブルに置かれたペン立てが画面下部の真ん中に立っていて2人の人物を分ける境界となる。またバスのスタンションポールが画面の真ん中にきて左右に分割し、こちらも2人の境界となる。第3話でもカーテンや窓のサッシが2人を画面の左右に分割する。

 カメラと人物の関係では、例えば第3話のホテルの部屋のショットで、夏子がベッドに飛び込むと上半身が画面の外に出て、足だけが画面内に残る。このときカメラが切り取るフレーム自体が境界と化していることに気づく。

 また、3話とも、人物がカメラに正対するシーン、僕(視聴者)と演者が目を合わせながら語るシーンがあるが、これは、今見ている劇場のスクリーン(画面)がこちら(視聴者)とあちら(映画)の境界となっている。

 このように、カメラやスクリーンといった媒体を介するという映画の形式を利用して出現する境界が表現されている。当然、これは「1.現実空間にある境界」と違って、実際に経験することはできない。メディウムによってもたらされる境界である。

 

3.世界線の境界:映画(時間)

 最後は「世界線の境界」である。”偶然”によって人が決断を迫られたときに、Aという決断を下した場合の世界線と、Bという決断を下した場合の世界線があって、その複数の世界線のシーンが並置される、または並置はされないが、もう一つの世界線の存在が示唆される。

 例えば第1話の事務所のシーンでは、メイコとカズが結ばれる世界線に進むと思いきや、偶然回避されて結ばれない世界線に進む。またカフェでは、AとBそれぞれの世界線のシーンが順番に並置される。(この時のズームイン、ズームアウトの仕掛けが面白い、古川さんの演技も素晴らしい。)

 第2話では、佐々木がもし大学を卒業し就職していたら、の世界線のシーンがある。(彼は偶然の出来事によって留年してしまった。)

 第3話では、第1話と同じく夏子とあやが結ばれる世界線に進む瞬間に、偶然回避される。

 このように、複数の世界線の存在が示唆、または実際に見せられる。人は偶然決断を迫られたり、偶然決断を回避させられたりする。現実世界で人は一つの世界線しか経験できず、これは映画的(時間的)な表現である。

 

まとめ

 まとめると、『偶然と想像』は、現実世界・メディウム・映画(時間)といった複数の次元で発生する境界線上に役者(登場人物)が現れ、大小さまざまな偶然に左右されながらその瞬間瞬間を生きる映画である、と思う。

 最近読んだ本に、偶然、「境界」についての記述があった。それは風景論の「見晴らし・隠れ家理論」についてで、本能的に人々は開かれたエリア(見晴らし)と閉じられたエリア(隠れ家)の境界を好むことが明らかにされている。人間は境界を好み、境界に遊ぶ生き物なのだ。

 普段いる閉じられたエリアから、ある偶然を踏み台にして開かれたエリアにいけるかどうか、境界を越えて見晴らしを得ることができるかどうか。『偶然と想像』の主題かなと思う。


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▲濱口監督

 

 今日は「境界」について考えたが、ほかにも、役者さんの声が素晴らしいことや、濱口さんがトークでお話しされていたこと、ホン・サンス監督のこと、ロケ地のことなど、書きたいことがあるので、また明日以降に書こうと思う。