1月12日

大宮へ行く。

 

東京の僕が住んでいるところから大宮へは電車で1時間20分かかる。それだけ離れているから、大宮と最寄り駅の天気が違っていることがしばしばある。数日前は、家を出たときは雪が降っていて地面に積もっていたが、大宮駅の広場に出ると快晴で道路は渇き切っていた。

天気が違っていると、自分がある程度の距離を移動していることを実感できて嬉しい。

 

そういえば北陸新幹線は、関東、長野、新潟、富山で気候が全く違っていて、車窓の景色がどんどん変わっていくのが楽しい。

 

特に、群馬から長野あたりにある長いトンネルを越えると、郊外の街から突然雪国に出る。その劇的な瞬間が好きだ。川端康成もこんなトンネルを経験したのかなと思う。

 

長野の雪は桁違いで、本当に全てが真っ白の世界だ。建物も木も、何かもが、裏側まで、徹底的に白い。発泡スチロールで作る真っ白な敷地模型と同じだ。全部が白に抽象化されると、距離が掴めなくなり、スケールもだんだん混乱してくる。恐怖を感じる。僕はここには住めないな、と思う。

 

またしばらく乗っていると、今度は新潟の糸魚川に出る。地名は川だが、実際は海の街だということを新幹線に乗って実感した。海と街がとっても近くて美しい。僕が乗るときの糸魚川はよく晴れている。海を見るために、金沢方面の時は右側に、上野方面の時は左側に座ると良い。

1月11日

学部生・修士生のゼミに参加。

 

学部生は2週間後に卒制の提出ということで発表せず、修士生のみの発表だった。

 

都市グリッドに生態系を滑り込ませていく提案、写真→テクスト→建築と、情報を複数のメディウムに通し変換するプロセスによって新しい建築を生成しようとする提案、など、それぞれの興味や関心に対して素直に考えていて良いと思う。

 

先週読んだ蓮實重彦さんの本で、映画の批評家には"撮れる批評家"と"撮れない(批評だけをする)批評家"がいるといい、フランスのヌーベルバーグの批評家たちを実際に"撮った批評家"だとして紹介していた。建築家も同じで、作ることと批評することの両方ができなければならない。

 

僕も一先輩として後輩たちに批評したりアドバイスしたりするが、的確なことが言えない。もっと言葉と知識と経験を蓄えて批評力を鍛えなければならない。

1月10日

雪が溶けてから、花粉が舞っている。昨日の夜からアレジオンを飲みはじめたが、身体がとにかくだるい。特に今朝の目覚めは最悪だった。頭が重い。僕の顔は人よりでかいから、ただでさえ重たい頭なのに、勘弁してほしいと思う。

 

大学に行ってもずっとしんどかったので、夜、違う薬を買いにドラッグストアへ行った。

 

名札に"登録販売者"と書かれている店員さんに「だるくなりにくい花粉症の薬はありますか」と聞くと、「そちらのアレジオンですね」と言われた。困った。一番優しい薬にも耐えられないくらい、僕の身体は弱いらしい。グアテマラに行った時に免疫力を低下させたせいだろうか。

 

「辛いときは、栄養ドリンクを飲むと良いですよ」と言いながら、店員は飲み物をグッと飲む仕草をした。陽気だ。この店員さん、どんな症状の客にも栄養ドリンクを勧めているんだな、と思った。

1月9日:映画『偶然と想像』1

 渋谷のBunkamuraル・シネマで濱口竜介監督の『偶然と想像』を見た。ネットの配信で既に1度見たのだが、劇場で見たかったのと、上映後に濱口監督のトークイベントがあるので来た。
 僕は映画が好きなだけの素人で、たくさん見ているわけではないし、ショットや構図の専門的な知識は全くないが(いずれ身に着けたい)、今回『偶然と想像』を見て気づいたことをここに書く。


 それは「境界」についてである。

 濱口監督は、公開に際してのインタビュー(https://tokion.jp/2021/12/17/ryusuke-hamaguchi/)で、

 

 ー1つ言えるのは、実在する世界とフィクションの境界面みたいなところに、「偶然」も「想像」もあるのではないかということです。想像というのは、ないから想像するという側面がありますが、偶然の方は、稀な、ほとんどあり得ないことなんだけど確かにあることなんですよね。つまり、偶然はその境界面の「ある」側の方に、想像は「ない」側の方にあって、その現実とフィクションを取り違えさせる、あるいは超えていくために、この2つは表裏一体の役目を果たしているんじゃないかと考えているところです。ー

 

 ー本当に欲しいものを現実のものにする時に、やっぱり自ら飛び込んでいく必要がある。そして、その飛び込んでいく対象というのは、ある種の偶然によって現れるんだと思います。ルーティンで構成されている自分の人生に訪れる、本当はこちら側の人生に開かれていきたいと思っているその偶然にうまく飛び乗れるか、自分を投げ出せるかということ。ー

 

と述べていて、「境界」について話しているのだが、僕は映画の中にいくつもの「境界」が出現していると思った。それは大きく分けて3つに分類できる。「現実世界にある境界:空間」、「カメラによって発生する境界:メディウム」、「複数の世界線:映画(時間)」の3つである。

 

1.現実世界にある境界:空間

 まず「現実世界にある境界」は、文字通り、現実世界に存在する物理的な境界のことである。『偶然と想像』では特に、内と外の境界としての”開口部”が頻出する。ほぼ全てのシーンに開口部がある。

 開口部の多くはガラスで、境界の先の世界が常に透けて見えている。第1話のタクシー・マンションのエントランス・設計事務所・カフェ、第2話のゼミ室・瀬川先生の部屋・アパート・マンション・バス、第3話のバル・家。徹底して開口部=透明な境界がある。
 また、開口部のうち、ドアは3話全てに登場するエレメントで、他者(事務所のスタッフ、同級生、宅配便のお兄さん、息子)がドアという境界を越えてきて、登場人物たちがいる世界に侵入し影響を与える。

 他には、第3話の住宅のキッチンはカウンター式で、台所とダイニングの境界として2人は向かいあう。また、住宅へ向かう道には歩道と車道の境界である白線があって、白線の内と外をそれぞれ歩いていた二人が他者に出会った後、同じ側を歩くシーンなど、ちょっとした偶然に駆動されて人は境界を越えたり、境界の前で踏みとどまったりする。その繊細さが良い。

 このように、この映画は日常にあるたくさんの境界を表現していて、これらの境界は当然私たちも実際に経験することができるし、日々経験している。

 

2.カメラによって発生する境界:メディウム

 2つ目は「カメラによって発生する境界」である。カメラの位置・切り取るフレームと、その場所にあるオブジェクトの位置や人物の動き・向きとの関係から、境界が発生する。

 カメラとオブジェクトの関係では、例えば第1話は、工事現場を切り取ったカメラが、ゆっくりと上にティルトして椿?の木が現れる。第2話では、テーブルに置かれたペン立てが画面下部の真ん中に立っていて2人の人物を分ける境界となる。またバスのスタンションポールが画面の真ん中にきて左右に分割し、こちらも2人の境界となる。第3話でもカーテンや窓のサッシが2人を画面の左右に分割する。

 カメラと人物の関係では、例えば第3話のホテルの部屋のショットで、夏子がベッドに飛び込むと上半身が画面の外に出て、足だけが画面内に残る。このときカメラが切り取るフレーム自体が境界と化していることに気づく。

 また、3話とも、人物がカメラに正対するシーン、僕(視聴者)と演者が目を合わせながら語るシーンがあるが、これは、今見ている劇場のスクリーン(画面)がこちら(視聴者)とあちら(映画)の境界となっている。

 このように、カメラやスクリーンといった媒体を介するという映画の形式を利用して出現する境界が表現されている。当然、これは「1.現実空間にある境界」と違って、実際に経験することはできない。メディウムによってもたらされる境界である。

 

3.世界線の境界:映画(時間)

 最後は「世界線の境界」である。”偶然”によって人が決断を迫られたときに、Aという決断を下した場合の世界線と、Bという決断を下した場合の世界線があって、その複数の世界線のシーンが並置される、または並置はされないが、もう一つの世界線の存在が示唆される。

 例えば第1話の事務所のシーンでは、メイコとカズが結ばれる世界線に進むと思いきや、偶然回避されて結ばれない世界線に進む。またカフェでは、AとBそれぞれの世界線のシーンが順番に並置される。(この時のズームイン、ズームアウトの仕掛けが面白い、古川さんの演技も素晴らしい。)

 第2話では、佐々木がもし大学を卒業し就職していたら、の世界線のシーンがある。(彼は偶然の出来事によって留年してしまった。)

 第3話では、第1話と同じく夏子とあやが結ばれる世界線に進む瞬間に、偶然回避される。

 このように、複数の世界線の存在が示唆、または実際に見せられる。人は偶然決断を迫られたり、偶然決断を回避させられたりする。現実世界で人は一つの世界線しか経験できず、これは映画的(時間的)な表現である。

 

まとめ

 まとめると、『偶然と想像』は、現実世界・メディウム・映画(時間)といった複数の次元で発生する境界線上に役者(登場人物)が現れ、大小さまざまな偶然に左右されながらその瞬間瞬間を生きる映画である、と思う。

 最近読んだ本に、偶然、「境界」についての記述があった。それは風景論の「見晴らし・隠れ家理論」についてで、本能的に人々は開かれたエリア(見晴らし)と閉じられたエリア(隠れ家)の境界を好むことが明らかにされている。人間は境界を好み、境界に遊ぶ生き物なのだ。

 普段いる閉じられたエリアから、ある偶然を踏み台にして開かれたエリアにいけるかどうか、境界を越えて見晴らしを得ることができるかどうか。『偶然と想像』の主題かなと思う。


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▲濱口監督

 

 今日は「境界」について考えたが、ほかにも、役者さんの声が素晴らしいことや、濱口さんがトークでお話しされていたこと、ホン・サンス監督のこと、ロケ地のことなど、書きたいことがあるので、また明日以降に書こうと思う。

 

 

1月8日

 今朝も快晴。オートミールを食べた。年末年始に会った人会った人から太ったと言われたからだ。数ヶ月前にダイエットしていた時は毎日食べていた(1か月で4キロ痩せて、次の1ヶ月で5キロ増えた。)。僕は前夜から豆乳で浸しておく「オーバーナイトオーツ」で食べる。この方法は温めないからオートミールの粘性が全く出なくて良い。冷凍のブルーベリーたくさんと蜂蜜少しを加えて食べる、美味しい。

 昼に大学に向かう。近くのパン屋さんでクロワッサンポテトサンド、オリーブとドライトマトのフーガスを買って食べた。この2つはあるといつも買ってしまう、とても美味しい。クロワッサンの食感、フーガスの食感が好きだ。

 夜は大学でチーズフォンデュを作った。非常食用の乾パンが、賞味期限のための入れ替えで各研究室に大量に配られたのを消費するためだ。卒制、修設を頑張っている後輩たちと食べた(感染対策しつつ)。チーズフォンデュは準備自体は簡単だが、野菜を煮るのにいかんせん時間がかかると知った。ジャガイモやブロッコリーは美味しいが、結局シャウエッセンが一番美味しいのが作り手としては切ない。スティックパンはまだ40袋ほど余っている、期限は2月9日だ。

 オートミール、クロワッサン、チーズフォンデュ、、。健康的なスイス人の食生活こういう感じなのだろうか?フランス近くの寒いところ、ローザンヌあたりのスイス人。

 

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1月7日

昨日の大雪と打って変わって、雲ひとつない青空。雪が降ったおかげで空気が澄み切っていて、とても心地良い。

 

大宮へ向かう。

行き帰りの電車で『ルイス・カーンの空間構成』(原口秀昭、1998)を読む。

 

 

この本はルイス・カーンの建築作品を空間構成の視点で分析し、図面、特にアクソノメトリック図で視覚的に表現している。と同時に、ミース・コルビュジェ・フランクロイドライト・アアルトの建築作品の空間構成と比較することで各建築家の特質を示そうと試みている。

徹底的に図化し、図で建築を説明しようと努める筆者は素晴らしい。そして、見開きの右ページにテキスト、左ページに図面という紙面構成によって、常にテキストと図面を行き来しながら読めるのが良い。学部3年生や4年生に勧めよう。

今日読んだ1、2章はミースについてである。ミースの作品は(篠原一男と同じく)4つの時期に分けることができ、初期のレンガによる組積造の「壁の空間」から、その中心性の解体、遠心性の獲得を経て、最終的に「水平スラブの空間」の均質性へと収束した。

これまで僕は、ミースの作品を写真でばかり見ていて、図面をきちんと見ていなかったと気づき、猛省した。

「IITクラウンホール」や「国立美術館」(ベルリン)などの透徹した平面は図としての強さと美しさを放っている。一方で、ミース建築にとって重要の要素の一つである各材料の"肌理"は、図面には描かれていない。写真で分かるには分かるが、凹凸や反射を経験することはできない。肌理は実物だけが持っている情報である。

1月6日

朝、カーテンを開けると雪だった。

東京でこんなに降るのは何年ぶりだろう。

 

支度して、大学へ向かう。

 

小学生の男の子が、口を空に向けて広げている。降ってくる雪を食べようとしている。

(恵みの)雨に向けて口を開ける人は漫画か何かで見覚えがあるが、雪に向けて開ける人ははじめて見た。雨は飲み物で、雪は食べ物。

 

30mほど前方で、自転車に乗っていた中学生が盛大に転んだ。周りにいる人達は誰も助けない。彼は恥ずかしそうに俯きながら、ゆっくりと立ち上がって自転車を起こし、また漕ぎ始めた。雪のせいで転び、雪のおかげで無傷だったようだ、僕も構わず通り過ぎた。